昭和クラブ

音楽制作やバンドの活動などの情報発信。

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昔担当していたアーティスト鮎川麻弥からメールが有り、7月に30周年記念CD発売とライブをやるとの事でした。早いものであれから30年経ったのか・・・。鮎川はTVアニメ重線機エルガイムの主題歌「風のノーリプライ」でデビューし、機動戦士Zガンダム主題歌「Z・刻をこえて」などを歌った歌手だ。もともとアニソン歌手ではなく、たまたまデビューにアニソンを選んだことで、アニメ主題歌のお話をいただくことが多かった訳でした。
エピソートとして「鮭川事件」を思い出します。昔歌手は名前が<あ>から始まるのが良いという都市伝説のようなものがありました。確かにレコード店などでも「あいうえお」順で並んでいたり、何かに載る時も早い方が得だという事かも知れません。
そんなことで本名加藤さんだったのですが、芸名~若鮎のような新鮮さ・・・で鮎川と命名しました。そこで事件が起きました。レコードは商品ができる前に宣伝のためのサンプル盤を作りますが、そのレーベルに何か手違いで「鮭川麻弥」と印刷されていたのでした。本人はもちろん関係者一同、デビューの出鼻を挫かれたようでガックリでした。昭和音楽市場昭和popsに情報掲載。
鮎川麻弥 パーフェクト・ベスト鮎川麻弥 パーフェクト・ベスト
(2010/07/07)
鮎川麻弥

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最近絶頂期とそれが終わったのを目の当たりにした事がありましたね。まずは政権(総理大臣)交代。また名役者の訃報や松井選手の引退など、運命的浮き沈みを改めて考えさせられました。前段が長くなりましたが、私事の思い出の中でもこれを感じることがありました。レコード会社に入社して制作に携わり、ビッグヒットを目指して作品を作ってきましたが、10年の歳月が過ぎて、そろそろディレクターも首かと思っていた時に、何気なくアルバムから切り出した「四季の歌」と、得意分野ニューミュージックの「どうぞこのまま」が一度にオリコン・トップ10入りしました。自分は有頂天にはなりませんでしたが、やはり社内での雰囲気は確かに変わりました。吉祥寺に家族と出かけ、レコード店での売り上げ展示が1位と2位だった時はディレクター冥利に尽きました。
その後の制作はやり易くなり、冒険企画もできるようになりました。但し歌手がヒットを出すと、ビジネス的に社内注目されるので、作品に関しても、ジャケットなどのビジュアルに関しても、営業、宣伝、支店セールスの方たちからも諸々の意見が寄せられ、もちろん制作内部やプロダクションの考え方も有り、調整が大変でした。またノルマも当然増え、「ある意味でヒットが出ないのも地獄、ヒットが出るのも地獄」などと贅沢な泣き言をいっていた時代もありました。この頃の情報ホームページはこちら→昭和音楽市場昭和ヒストリー2 
「どうぞこのまま」のジャケットはヒットの兆しが出た時に変えました。これは最初のレアものです。
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夏のイベントシーズンも終わりに近づきました。大昔になりますが、レコード会社で入社早々の学芸セクションにいた頃大変美味しい仕事をしました。レコードの時代ですが、日本の祭りのライブを収録したシリーズがあり、アシスタントとして真夏の収録ツアーに同行しました。「郡上踊り」「鵜飼」「阿波踊り」を目的に1週間ほどの旅でした。アシスタントと云ってもミキサーさんとディレクターさんがいるので、そんなに仕事はなく、上記イベントをいい席でだっぷり楽しむような、そして空き日には京都を楽しんり・・・。時効なので言えますが最高の仕事でした。それに似たもので日本の蒸気機関車のシリーズも一度アシスト旅行をしました。これは地味ですが、東北から北海道でいい音の録れる峠などで遠くから来る蒸気機関車をじっと待って、通り過ぎて完全に聞こえなくなるまでを収録します。当時も沢山の機関車マニアがいて相当売れるシリーズでした。大事なところでディレクターが口笛を吹いてしまった失敗談も時効だから言えます。1週間に1度しかないポイントをダイアグラムで調べて録音に臨む訳ですから。
今年のイベント写真です。その頃の作品はHP昭和音楽市場ヒストリー
    スーパーよさこい2
                阿佐ヶ谷七夕
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      三鷹阿波踊り






想い出 | コメント:0 | トラックバック:0 | 2012/08/28(火) 18:50:45
中田喜直、サトウハチロー、ボニー ジャックス
ディレクター見習いとしていろいろな企画のアシストをしましたが、印象に。satouhachirou.jpg
残っているものでは、童謡関係の作家プロジェクト「ロバの会」の諸々の作品です。ロバの会には「めだかの学校」「小さい秋みつけた」の中田喜直、「サッちゃん」「犬のおまわりさん」の大中恩など。誰でも知っている大作家が所属していました。また雲の上の先生だった<サトウハチロー>先生のお宅にも何度かお邪魔をしてサイン入りの詩集などもいただきました。変わったところでは日本テレビ「笑点」の番組が始まったときに、主題歌を立川談志とメンバーで録音しましたがそのお手伝いもしました。
最初に私がメインでやらせていただいた企画がボニージャックスのフォークソング集でした。ワイルド・プロデューサーがその頃の時流と私の得意を結び付け
てくれた訳で、暖かい配慮をしていただきました。バックの演奏に私たちより無題bony
し後輩の慶応大学のブルーグラス・バンドをお願いしましたが、バンジョー担当の池田さんは、その後レコード会社に入社し、大ヒットを飛ばす名ディレクターになりました。忘れられない1枚です。
この頃の作品やエピソードはホームページ昭和音楽市場ヒストリーで紹介しています。
想い出 | コメント:0 | トラックバック:0 | 2012/06/26(火) 14:43:22
ディレクター修行3
昭和40年代の初めはやっとステレオ録音になった時代で、レコーディングはカラオケを録音するのに1曲1時間。20数人が集合して一度に演奏します。アレンジャーがスタジオに入って指揮をします。譜面の間違いや楽器の演奏ニュアンスなどを決めるために数回演奏します。その間にブースではミキサーがそれぞれの楽器の音色やリバーブ、バランスなどを調整していきます。ディレクターはそれを聞きながら打ち合わせの時に描いたイメージ通りか、テンポは良いかなどチェックをし、問題があればアレンジャーに伝えて調整します。
まずテストで録音し、皆で自分の演奏や録音的にどんな音になっているかなどチェックします。とにかく限られた時間にバランスを含め全てカンパケにするのですから、それぞれ皆真剣です。この緊張感が昔の演奏が良い意味で迫力があった理由かもしれません。現在のようにマルチトラックで別々に演奏し、後からミックスするのとはどこか違います。チャンネルも最初は6ミリテープでモノ→ステレオ→3チャンネル→4チャンネル→8チャンネル→16チャンネル→24チャンネル→32チャンネルとテープの幅も含め録音機材が変わっていきました。32チャンネルの頃からデジタルになったと思います。メディアもSP→LP(カセット)→CD→MDなどと変わって行きます。
その頃まだカラオケという言葉は一般的でなく、業界用語でした。もちろんカラオケBOXができる前です。6ミリでカラオケを作りそれを聞きながら歌手が歌を歌いまた6ミリテープに録音します。例えばザ・ピーナッツの初期のヒット曲はモノのオリジナルカラオケしかありませんでした。またモノで録音した昔の曲を擬似ステレオと称して技術的に加工したのもその頃でした。ピーナッツ情報はHP昭和ダイスキ~双子歌手SPに掲載
THE PEANUTS “THE BEST 50-50”THE PEANUTS “THE BEST 50-50”
(2010/04/30)
ザ・ピーナッツ

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沢山あるレパートリーの中から関係者やファンによる投票で選曲、順位を収録したもの。ちなみに私は「銀色の道」友達は「大阪の人」「かえしておくれ今すぐに」(これは吉展ちゃん誘拐殺人事件のときにキャンペーンソングとして作られた。)でした。


想い出 | コメント:0 | トラックバック:0 | 2012/06/11(月) 15:51:44
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