昭和クラブ

音楽制作やバンドの活動などの情報発信。

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昨夜ザ・ピーナッツの伊藤エミさんの訃報を聞きました。ザ・ピーナッツと言えば中学時代に「可愛い花」をラジオで聞いて明るいコーラスに惹かれました。同じレコード会社に就職し、実際に同じセクションの歌手として身近な存在になりました。その頃はヒット続出の絶頂期でした。引退のライブレコードは同期のディレクターが担当しました。引退後は過去の作品集を発売していましたが、20年もたってでしょうか、私が過去の音源を活用する部署に移り、ピーナッツの作品を数々リリースしました。まず厖大な全てのレコーディング作品をチェックし、未発売の楽曲・テイクを含めて10枚組みのCDBOXをリリースしました。またその頃はやっていたリミックスなどにも挑戦しました。後のtrfのDJ KOOやDJ hondaがJG'Sの名前で参加してくれました。その後商品として初めてのビデオ商品にも挑戦し、今や超貴重品になっています。ピーナッツ情報はHP昭和ダイスキ双子歌手SPで。

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ディレクター見習いとしていろいろな企画のアシストをしましたが、印象に。satouhachirou.jpg
残っているものでは、童謡関係の作家プロジェクト「ロバの会」の諸々の作品です。ロバの会には「めだかの学校」「小さい秋みつけた」の中田喜直、「サッちゃん」「犬のおまわりさん」の大中恩など。誰でも知っている大作家が所属していました。また雲の上の先生だった<サトウハチロー>先生のお宅にも何度かお邪魔をしてサイン入りの詩集などもいただきました。変わったところでは日本テレビ「笑点」の番組が始まったときに、主題歌を立川談志とメンバーで録音しましたがそのお手伝いもしました。
最初に私がメインでやらせていただいた企画がボニージャックスのフォークソング集でした。ワイルド・プロデューサーがその頃の時流と私の得意を結び付け
てくれた訳で、暖かい配慮をしていただきました。バックの演奏に私たちより無題bony
し後輩の慶応大学のブルーグラス・バンドをお願いしましたが、バンジョー担当の池田さんは、その後レコード会社に入社し、大ヒットを飛ばす名ディレクターになりました。忘れられない1枚です。
この頃の作品やエピソードはホームページ昭和音楽市場ヒストリーで紹介しています。
昭和40年代の初めはやっとステレオ録音になった時代で、レコーディングはカラオケを録音するのに1曲1時間。20数人が集合して一度に演奏します。アレンジャーがスタジオに入って指揮をします。譜面の間違いや楽器の演奏ニュアンスなどを決めるために数回演奏します。その間にブースではミキサーがそれぞれの楽器の音色やリバーブ、バランスなどを調整していきます。ディレクターはそれを聞きながら打ち合わせの時に描いたイメージ通りか、テンポは良いかなどチェックをし、問題があればアレンジャーに伝えて調整します。
まずテストで録音し、皆で自分の演奏や録音的にどんな音になっているかなどチェックします。とにかく限られた時間にバランスを含め全てカンパケにするのですから、それぞれ皆真剣です。この緊張感が昔の演奏が良い意味で迫力があった理由かもしれません。現在のようにマルチトラックで別々に演奏し、後からミックスするのとはどこか違います。チャンネルも最初は6ミリテープでモノ→ステレオ→3チャンネル→4チャンネル→8チャンネル→16チャンネル→24チャンネル→32チャンネルとテープの幅も含め録音機材が変わっていきました。32チャンネルの頃からデジタルになったと思います。メディアもSP→LP(カセット)→CD→MDなどと変わって行きます。
その頃まだカラオケという言葉は一般的でなく、業界用語でした。もちろんカラオケBOXができる前です。6ミリでカラオケを作りそれを聞きながら歌手が歌を歌いまた6ミリテープに録音します。例えばザ・ピーナッツの初期のヒット曲はモノのオリジナルカラオケしかありませんでした。またモノで録音した昔の曲を擬似ステレオと称して技術的に加工したのもその頃でした。ピーナッツ情報はHP昭和ダイスキ~双子歌手SPに掲載
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(2010/04/30)
ザ・ピーナッツ

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沢山あるレパートリーの中から関係者やファンによる投票で選曲、順位を収録したもの。ちなみに私は「銀色の道」友達は「大阪の人」「かえしておくれ今すぐに」(これは吉展ちゃん誘拐殺人事件のときにキャンペーンソングとして作られた。)でした。


修行のアシスタントディレクターの仕事のひとつに、原稿とりや資料届けなどがあります。企画ごとにお付き合いする方が変わるので、初めてのお宅を訪ねる場合が多いのです。今ならばスマホや携帯ですぐ分かりますが、当時は住所だけメモして飛び出すケースが多くて、最寄の駅が分かっても何口か線路の右か左側かなど分からないままに住所を頼りに探すわけですが、だんだんとと感が冴えてきて殆んど間違いが無くなったのが不思議です。
スタジオのアシスタントは実務の勉強なので興味があるものでしたが、お茶の手配や、諸々の雑用ですが、緊張感があります。一年ほど経過した時に、コンソールという機械の前のディレクター席に代りに座ってみろと言われ座りました。バスの運転手の代わりをやってみろと言われたようなものです。大きな音のモニタースピーカーから流れてくる楽器をそれぞれ聞き分けるわけですが、その頃はステレオが始まって直ぐで、最初はどの楽器が右・左どちらから流れてくるかも一瞬で判断できませんでした。ディレクターが本来スタジオ(Dチェアー)やる事は沢山あります。詳細は次回・・・。この頃の作品やエピソードはホームページ昭和音楽市場ヒストリーで紹介しています。
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